広岡正秋がヤバイ?超大物に変貌した生涯とは?

人気爆発中の朝ドラ「あさが来た」のあさ(波留)の義弟である栄三郎(桐山照史)の実在モデル広岡正秋さんの生涯についてお伝えいたします。

 

広岡正秋さんといえば、加島屋の8代目である広岡正饒と広岡とらの間の三男として育ちます。加島屋の9代目は、本来長男の広岡正影が継ぐ予定でしたが、長男が若くして病気で亡くなってしまいます。

 

そのため、広岡浅子さんの夫で二男の広岡信五郎が後を継ぐと普通は考える人も多いと思います。しかし、信五郎が商売に関心がなく、分家に出ていたために広岡正秋さんが加島屋の9代目を継ぎます。

 

正秋は、信五郎と少し年が離れていたので、正秋が大きくなるまでの間は、信五郎は後見人として加島屋で働いています。そして、正秋が18歳の時に広岡正饒から加島屋を家督相続して、9代目に就任します。

 

正秋は、信五郎とは異なり、幼い頃から後継ぎとしてきちんと商売のことについて教えられますので、その点、信五郎のように三味線や謡曲といった趣味に没頭することはありません。

 




 

広岡浅子さんに対してもきっちりと伝えるべきことは伝えます。広岡浅子さんと広岡正秋さんが初めてぶつかったのは、炭坑経営の引き際についてでした。

 

炭坑の爆破事故で、正秋はいち早く炭坑を売却をしたい正秋に対し、広岡浅子さんはまだ続けたいというところで、ぶつかり合います。

 

この時は、結局、広岡正秋さんの方が折れてしばらく銀行設立を我慢することと引き換えに炭坑を続けることを了承します。

 

広岡正秋さんは、このようにやや気が弱いといいますか、決断力が乏しいことを正饒が心配しています。だが、このやや気が小さいところも、次第に変化していき、堂々とした加島屋の当主となっていきます。

 

炭坑の爆発事故が落ち着き、炭坑事業の儲けで加島屋は両替屋から銀行に変化していきます。明治21年に加島銀行が設立します。正秋は、加島銀行の初代頭取を務めます。

 

明治34年に、広岡浅子さんが創立した日本女子大学の設立に対して相当の資金援助を加島屋として行っています。明治35年には、生命保険会社の合併を広岡浅子と共にすすめていき、大同生命を誕生させます。

 

こちらも初代社長に正秋さんが就任します。女性であることから、自らトップの役職に就くことがなかった広岡浅子さんに対し、正秋さんが加島屋の当主として、様々な代表者となっています。

 

広岡浅子さんは、やると決めたらまっすぐに誰がなんと言っても進みますが、この正秋さんはそれを止める役割を長く果たしています。明治42年に兄の信五郎の5年後に、この世を去っています。亡くなった年齢は65歳です。

 

朝ドラあさが来たでは、まだ出演が少なくなっていますが、広岡正秋をモデルにした栄三郎は、今後活躍してきますので注目するうちの一人になると思います。
広岡浅子さんと対立する時もありますので、そのシーンが楽しみですね♪加島銀行の創業者で、大同生命の創業者って相当ヤバイですよね。経済界の超大物だと思います。
それは、現在になってようやくわかることですけど本当にヤバイですね。加島屋の当主を譲り受けたあたりから徐々に商才を発揮していきますので、そこも見逃せませんね♪

 




 

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